寛政八年には、この年暮の仕廻金が不足した。年末の収支決算に不足金がでたという意味である。このため、新潟町の富豪高橋治郎左衛門の斡旋で、柏崎町の商人夷屋与兵衛から、借金をした。その担保として、村方の土地が質入れされた。村方では反対したが、やむをえないということで、質地証文をいれた。すぐにも、借金を返済して、質入れを解消することを願っていたが、けっきょく年々の収支の不足続きで、同一〇年春、年賦にするようたのみがあり、先方と交渉したが、話しがまとまらず領内の農民が江戸へ訴訟におよびそうになった。このときは村役人がなだめて訴訟にはいたらなかった。寛政一二年に笹屋勘左衛門が、勝手向すなわち財政をひきうけることになった。笹屋勘左衛門は大坂の豪商で、新発田藩の大坂蔵元として、その財政にも関係がふかかった。笹屋からは、月々に領主の笹屋指定の蔵宿まで納入する約束であった。このことを、領内の庄屋組頭がうけあっている。