各村々には、村役人として、庄屋や組頭がおかれた。大庄屋という呼称もみえる。文化六年、新発田藩は新津組庄屋六郎左衛門を、池之端知行所の当分大庄屋に任命している。文政四年の文書には、大庄屋飯村八兵衛とあり、幕末期の文久四年には、水原村の佐藤類之助、飯村雄太郎の二名が、大庄屋という肩書きをもちいている。領分全体の代表者として、大庄屋がおかれていたのであろう。万延元年には水原村庄屋飯村雄太郎に、大野町の当分支配を命じ、赤渋組庄屋新井田徹之丞にも当分かかわりを命じた。天神林村庄屋源兵衛と相談して御締向がゆきとどくようにと命じている。これらにおいて藩が直接命じていることが注目される。天明七年の金巻村堤防が決壊したときも、その修復工事に、新発田藩が資金、人足の援助をしている。天保七年にも堤防危険箇所修復のため、藩が人足の賃金を用だてている。これらの事実は、藩が池之端知行所の支配に密接に関わっていたことを推測させるものである。