旗本知行所

池之端溝口家にかぎったことではないが、旗本知行所は、その規模がちいさかったり、散財したりしていた。また、領主である旗本は、領地には代官を派遣して、自分はつねに江戸に居住していた。代官も、領地の有力農民にゆだねられることがあり、その支配の実態はよく分からない事が多い。池之端知行所の場合、享保一八年の御用金の証文に、田中勘兵衛という名前がみえる。また、寛政一二年笹屋勘左衛門の勝手引受のさいには、江戸屋敷勝手掛宮下藤兵衛の名前がある。江戸屋敷には、藩でいえば、家老にあたるような重臣がいて、領内の統治にあたっていた。在地には代官が存在した。天明七年に金巻村堤普請のとき、代官渡辺左狩の名がみえる。笹屋勘左衛門が勝手をひきうけたときの証文には、陣屋大橋小十郎なる者が、連署している。これも代官であろう。天保七年には、山川俊次郎が代官として名がみえる。

旗本知行所