文政一一年には藩役人一同に、藩主直溥から直々に、格別の趣法替えと称して、徹底的な倹約を実施すべきことを命じた。同年の物成り帳を精算したところ、江戸表で三〇〇〇両余、新発田にて一二〇〇両余が不足した。これに在来の借財元利がかさなり、天保元年には、この年の収支は、一万三〇〇〇両余不足となることがあきらかとなった。天保六年になると、同年九月から一一月までに必要な金が二万両あるのに、藩の御用達がその拠出をしぶったため、各組においてひきうけるように命じた。返済は月八朱の利息をつけ、平均値段で、元利を計算して城米をわたす約束であった。天保一〇年にも、さまざまな臨時入用の増大に、大坂蔵元へもたのめないということで、文化以来、御用才覚金や石掛御用金などを三度まで命じてきたが、このときもやむなく、御城下町をはじめ御領分中の身元の者へ、二万両才覚を命じることになった。利息は年五朱、返済が終了するまで、御米三千俵ずつわたす約束であった。