藩が財政窮乏におちいるのは文化年間にはいってからとみられる。文化四年、藩は町在の出身の者、富裕者に、急才覚金と称する御用金を命じた。そのときに、御勝手向きは、天明年間から莫大な物入りがつづき、そのえう寛政元年に二万石の領地が変更になって、おおいにさしつかえたが、これまでは町在へ御用金などは命じてこなかった、とのべている。それが、この年になって、御用金を命ずるのは、当年のたびたびの洪水で堤防破損箇所がすくなくなく、御普請にたいそうな物入りでさしつかえているところに、蝦夷地へ異国船が来着したため、領分には海岸部がおおく、そのうえ佐渡の警備もうけもっているので、これらの手当てが必要になったからであった。たんなる水害や減収、あるいは借財の増加だけでなく、海岸警備がおおきな負担になってきたことが領内にひろく御用金を課すきっかけになったのであった。こうした御用金が、たびたび領民のうえにかかってくることになる。