慶長三年、秀吉は上杉景勝を会津にうつしたあとは、検地を実施するために越後を直轄地とした。検地とは、領主が各村ごとに、土地の面積ゃ収穫量、各田畑の所有車の調査をおこなうことをいう。検地は、戦国大名のもとでも実施されていたが、全国を統一した豊臣秀吉が、それまでは六尺五寸平方を一歩とし、三六〇歩を一反としていたものを、六尺三寸平方を一歩とし、三〇〇歩を一反とあらため、同一基準で各地で実施した。秀吉によって行われた検地を太閤検地とよんでいる。検地は各大名のもとで実施され、つぎのような行程で行う。田畑屋敷の一筆ごとに、面積を測定する。土地の生産力によって、上中下の等級をつける。等級ごとに、米に換算しての標準収穫高をさだめる。この標準収穫高を斗代という。面積と斗代とから、一筆ごとの石高をさだめる。各土地の所有者をさだめる。この所有者を名請人という。これによって、どの村も全体の石高面積がさだまる。この結果、帳面として村方に交付されたのが、検地帳といわれるものであった。