組庄屋

中之口組庄屋となった伝兵衛は、宝暦一一年分の年貢の納入を翌年まで遅らせた。また、同組上新田名主同前組頭与次右衛門が収納をひきうけた年貢米が、一一年春の時点で未納になっていることを知りながら放置し、年貢を皆済できないで出奔する事態をまねいた。このため宝暦一三年五月、伝兵衛は同役の戸頭村長井三郎左衛門とともに庄屋役を解任された。その上、伝兵衛は城下徘徊ならびに三組、岡方組、阿賀野川手前の新発田領内所払い、田畑屋敷とりあげのうえ、中之口組所払いというきびしい処分をうけた。同役長井三郎左衛門は、役儀とりあげ戸締めに処された。三郎左衛門は三〇日経過したのち藩から戸締をゆるされ、明和三年には庄屋に復帰した。赤渋、中之口、鵜森、の小吉三組は、従来庄屋四名で各組支配をおこなっていたが、中之口組庄屋が二名罷免されたことで、在職している庄屋は赤渋組庄屋一名となってしまった。中之口組の支配を臼井村に住する赤渋組庄屋石田平四郎が兼務していたが臼井村から遠いため戸頭村に仮役所を置、中之口組の支配をおこなった。藩はこの事態を放置できず、宝暦一三年、大田村庄屋金子七郎左衛門を中之口組庄屋へ起用した。

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