歴 代

三代十助は、国上山五合庵の開基万元上との交流があつく、そのようすは、万元の著作からも伺いしることができる。父より先になくなり、国上山に分骨された。四代勘助は夢中家訓を授かり、公務に精励し、その功績によって、弟文四郎が今町名主に任命され、のちに中之島組庄屋役を努めた。また、宝永七年に死亡した妻の供養のために、正徳五年に国上寺へ銅鐘を寄進している。七代伊左衛門のとき、寛保二年春、新発田藩の年貢増収策に対し赤渋、中之口、鵜森、中之島組の農民が回状を発し、村上領三条町東本願寺にて集会した。この事件を藩に通報しなかったとして翌年、赤渋、中之口、鵜森、中之島組庄屋とともに罷免され中之口組支配は終わりをつげた。その後に寛保三年に赤渋、中之口、鵜森組庄屋にかわる小吉組庄屋に、戸頭村之丞が任命される。延享二年までの三年間弱の間は、小吉組庄屋が三組を統括し、各組に大庄屋はおかれなかった。

歴代